PIETRA

Affair

たとえばそういうことってあると思う。
ケーキが大好きだからと洋菓子屋でアルバイトをはじめたら、体中に甘い匂いが染み付いて食べる気がしなくなってしまったり、青い色を極端に好むあまり青い服ばかりむやみやたらと買い集めた結果、コーディネートもなにもあったもんじゃなくなったり。
たとえばそういうことなんじゃないかな、と考えながら、どこからか流れてくる歌をぼんやりと追いかけていた。

「ごきげんですね」
彼にそう言われてはじめて自分が曲にあわせて口ずさんでいるのに気が付いた。
ごきげんでもごきげんじゃなくても、たいてい私は唄っている。着メロでもファミレスのちゃちなカラオケのメロディーでも、知っている曲でさえあれば、ついつい合わせてハミングしている。心静かに考え事をしているときでも、浮かんだ言葉が何かの歌詞にあったな、なんて、思い出してはさえずってみたりする。
そういえば。
そんな私の癖も、知っているようで知らなかったんだろうなこの人は。あいかわらず何を考えているかさっぱりよめない横顔を眺めながら考えた。
行儀良く植えられた立ち木をわさわさと揺らしながら向かってくる風が、金木犀の甘さを運んでくる。
さっきまで透明だった光に、オレンジ色の空気がふわりとまじっている。
そういえば。
同じ言葉でくりかえし思う。
知り合ったときから、ずっと変わらない敬語だな。
彼が持っているビールの缶はすっかりぬるくなったらしく、さっきまで彼の指をしきりに濡らしていた水滴はもう一粒もなくなって、そのかわり、いつまでも握られている部分が、ぐんにゃりと柔らかそうにしなって見える。
「びっくりしました」
全然びっくりしていなさそうな口調でぽつんと言う。
「着々と荷づくりをしていたのは分かってたんですが、あの日帰宅したら、みごとにもぬけの殻だったんで」
「すみません」
私もつられて敬語になりながら、話す。
「やっぱり、いついつに引っ越します、とか言うべきでしたか」
「いや」
彼はやっとビールの缶をことん、と足元に置いて、背丈の割には小さい手のひらを組み合わせて、中途半端に開いた両足の間に落としこんだ。
「覚悟はしていたんですけど、のんきな私もさすがにリビングの真ん中で、何時間もぼーっとしてしまいました、着替えもしないで」
彼がネクタイ姿のまま、背中を丸めてあのだだっ広くなってしまったリビングに座っている姿を想像したら、申し訳ない、と思うのと同じ速さで、たまらないおかしさにおそわれ、あわてて咳払いでごまかした。
日曜日を惜しむ子供達がはしゃぎ合う声が遠く高く響いている。
目の前を、小さな鈴をつけた首輪の猫がのんびり横切る。
ほんの数日前まで一緒に暮らしていた部屋のあるマンションを仰ぎ見ると、四角く切り取られた空に、たくさんの窓から、夕飯の支度をする気配が流れ出してくる。
マンションの一階のコンビニと、都会のマンションにしては驚くほど広いこの中庭が、私達をここに住まわせた。
彼は35歳、私はもうすぐ31になる。
4年前に知り合って、1年前に籍を入れた。
結婚するまでの3年間、順調だったとも波乱万丈だったとも言える。きっとどんな恋人達でもそうだろう。
ちょっとした浮気心や激しい口喧嘩、少しの優柔不断さと重なるすれ違いに、時には別れてしまおうかと考えたり、女友達相手に朝まで電話で愚痴ったり、まあ、色々だった。
それでも彼しかいないと思ったし、彼の飄々とした物腰や、笑ったときの子供みたいな口元を、ずっとずっと見ていたいと思っていた。

スズミに会わせたい人がいるんだ、と裕子からのメールに、彼、タカハシのことが書いてあった。タカハシは裕子の旦那さんの仕事仲間で、同僚の家族同士で休日を遊園地で楽しみましょうという企画に、一人独身なのに参加したのだそうだ。そして、裕子の4歳の息子が彼にすっかりなついてしまったのだそうだ。
「裕子とは好みが合わないからなあ」
筆無精という言葉はなにも手紙だけに限らない。メールも苦手な私をよく知る友は、頃合いを見計らって電話をくれる。
「別に私の好みってわけじゃないから」
裕子は柔らかい声で笑う。
「なんかね、あ、スズミと並んだら似合いそうって、ふと思ったのよ」
「似合いそうって、ルックス的に?」
「うーん、ルックスっていうか、なんだろう、雰囲気?」
「なにそれ」
週末の真夜中近くのとりとめもない会話。
高校時代から1ミクロンの進化もない言葉の温度。
「ダンナはね、アイツはつかみ所がないんだけど、憎めない不思議な男だって言ってる」
「それって褒めてるの?」
「さあ。でも仕事はバリバリにできるらしいよ。あとね、背が高い」
「何センチ?」
「180だって」
「顔は?」
「及第点」
「なにそれ」
「ほら、スズミとは好みが違うから」
じゃあひとつ紹介していただきましょうか、せっかくだからとくすくす笑いながら、おやすみの挨拶をして受話器を置いた。

次の休みの日に、裕子の家でタカハシと会った。
タカハシは聞いていた年齢よりずっと若く見え、やっぱりその日も裕子の息子を相手に楽しそうに寛いでいた。
私は子供が苦手だ。
子供を子供として扱うことができず、いつでも真剣に応対してしまう。
まっすぐな視線を与えられると、それをどこにしまうべきか、本気で悩む。
それゆえ私は子供と相対すると適当にあしらうことができずに、最後にはくたくたになってしまうのだ。
タカハシは全然違っていた。
子供と接する態度が自然で、でもお父さんのようでもお母さんのようにでもなく、いわば年のうんと離れた兄弟のような距離感を持った、子供にとっては完璧な相手だった。
かといって、子供とべったりで、大人同士の話ができないわけではなく、タカハシが裕子夫妻や私と話をするときは、子供は不思議にタカハシの足元で一人静かに絵本などを広げはじめたりするのだ。
裕子のいれてくれたお茶の湯気の向こうで、裕子の旦那さんとたわいない冗談を交し合ってにこにこと笑うタカハシのシャツの洗い皺をゆらゆらと眺めていた時の気持ちを、後になってもよく思い出したものだ。

そして私達は、まんまと意気投合して、帰り際には電話番号とメールアドレスを交換し合った。
「タカハタ、スズミさん」
タカハシはひと文字ひと文字確かめるように私の名前を口にした。
「僕の名前とひとつしか違わない。結婚しても印象が変わらないですね」
なんて大それた事をさらりと言うのよ、この人は、と、ちょっとびっくりしながらも、もしかしたらさほどびっくりすることじゃないのかも、と思わせるほど、それは自然に聞こえた。
「そうですね。ちょっとつまらないかも」
私もなんでもないことみたいに答えて、クールを装ってみた。

はじめてのデートは恵比寿だった。
あいにくの雨で、私はおろしたてのワンピースの裾が濡れるのを気にしてあまり早く歩けずに、だいぶ余裕があったはずの待ち合わせ時刻に危うく遅れるところだった。
恵比寿の駅前は週末を楽しもうとする人たちでごった返していた。いつもは帰宅する会社員達のスーツでモノクロームな風景なのに、夕方からの急な雨のせいで、みんな慌てて安いビニール傘を買ったのだろう。そのキッチュな色と、新品のビニールのつやが蛍光灯の光をてらてらと反射して、がやがやと騒がしい駅前の風景をより鮮やかに彩っていた。
約束の6時半を5分すぎたころ、タカハシが改札を走って抜けてきた。私を見つけると、子供みたいに虫歯を丸見せにしてくしゃっと笑い、だいぶ離れたところからごめんごめんごめん、と言いながら近づいてきて、私の頭に手のひらをのせて、「待ちました?」と聞いた。
タカハシの手のひらは、私の地肌に、彼が走った距離をその熱でもって正確に伝えた。
「待ちました」と私はどぎまぎしながらも、自然に微笑んで、それからお互いどちらからともなく手をつないで歩きはじめた。
今思えば、まだ付き合うともなんとも話し合ったわけではないのに、やっぱりいつから付き合い始めたの?と人に聞かれたら、2人ともあの雨の夕方からと答えるだろう。
雨に濡れたコンクリートの匂いと、ビニール傘の匂いのする夕方。
そんな始まりだった。

なんとなく始まった恋愛は、やっぱりなんとなくあたりまえのように結婚することになった。気が付いたら事務的に結婚の段取りを相談をしていた、という感じだ。
式場も日程も新居も、なにもかも決まってしまってから、
「そういえば私、プロボーズされてないわ」
と、ぶつぶつ文句を言った。
タカハシは、
「そういえば、そうでしたね」
と、はじめて気が付いたらしく、しばらく考え、
「じゃあ、来週の週末にでもプロポーズします」
と言った。
「なにそれ」
私があきれて言うと、
「まあ、乞うご期待、ということで」
と、なんでないことのように澄ました顔で言う。
そして次の週の週末、本当に真面目に
「スズミさん、結婚してください」
と一抱えもある大きな花束を持ってきた。
ばかみたい、と笑いながら、あまりにもオーソドックスなプロポーズのスタイルに思わず
「はい」
と、しおらしく答えていた。

あの日は、2人のこれからの人生が、この花々のようにキッチリと束ねられ、完璧な色合いで続いていくんだと信じていた。
むせかえるような花々の香りに包まれながら、そう信じていたのだ。

タカハシの勤務する会社は、所謂IT関連企業といわれる中でも比較的知名度の高いところだ。裕子の旦那さんが言うとおり、彼は本当に仕事ができるらしく、与えられた業務はさっさとこなした上に、自主的に企画書をいくつも提出して、あれよあれよという間にどんどん出世していった。
そんなわけでタカハシは毎日を忙しく過ごしていて、平日はほとんど終電で帰宅し、朝は誰よりも速く出社して、心から仕事を愛しているようだった。
それでも週末にはたいてい一緒だったので、結婚して一緒に住むようになっても、私達の生活にさほどの変化はなかった。
私は5年前になんとなくはじめた、カフェつき雑貨屋、もしくは雑貨屋つきカフェとでも言うべき小さな店を、あいかわらずのんびり続けていた。口コミで時たま受けていたWEBデザインの仕事がだんだんと増えるに伴い、私は店の片隅にしつらえたデスクの前に座り続けることが多くなった。
店は、オープンとほとんど同時に雇った男性社員一人と、数人のアルバイトでまわしていた。一応会社組織にはなっていたものの、個人商店とどこも変わらない杜撰な経営。それでもスタッフ同士は仲良く、皆がそこそこの報酬でにこにこと仕事ができる、あたたかな場所として存在していた。
「少し休みませんか」
PCの画面に見入っていた私の視界に、唯一の社員であるカシワギ君が遠慮がちに映り込んできた。
手には注意深く泡立てられたカプチーノがやわらかく香っている。
「すっかりカフェの方が忙しくなっちゃったわね」
私は視線を上げたついでにきゅううっと伸びをしてから、あたたかいカップをありがとうと受け取った。
「カフェもですけど」
カシワギ君も一息入れる気になったらしく、そばにあったイスを片手でひょいっと引き寄せて、パソコンを挟んだ斜めくらいにするりと座った。
「店長の仕事がやたら増えてませんか。最近気がつくと、ずーっとパソコンをにらみっぱなしで眉間にしわを寄せてますよ」
いつ見ても無駄のない動作でキッチン内をスマートに動いている彼が、私のことをそんな風に観察していたことが意外だった。
カシワギ君は私より5つ下の25歳で、「今時のオトコノコ」という形容がしっくりとなじむ風貌をしている。甘めの顔立ちに、ぶかぶかのパンツをはいて、たいてい帽子をかぶって出勤してくる。音楽とバイクをとても好んでいて、お客さんの女の子達にモテモテのようだ。おかげで雑貨の売り上げをはるかに凌駕して、カフェは好景気なのである。
「私は自分が好きなことをやっているだけだから」
それでもカシワギ君のいれてくれたカプチーノを両手で包むと、全ての指がこわばっていたことに気づく。
「それなら僕も一緒ですよ。最近つくづくこの仕事が自分に合ってるなって思うんです」
「いやいやする仕事ほどつらいものはないから、それを聞いて安心したわ」
「いつか僕も」
カシワギ君は、その大きい目をすうっと細めて遠くを見た。
「こういうあったかい店が持てるといいなって思ってるんです」
それからちょっと照れたように笑って
「ずっと先の話、夢の話ですけどね」
と声のトーンを変えて言った。
「もう9時過ぎてますよ、今日はまだ帰宅しなくていいんですか?」
「ああ、うん、連絡ないから」
「連絡ないから?」
「私のダンナ様は、早く帰れそうなら連絡があるの。連絡がないってことは、遅くなるって事だから」
「遅くなる時じゃなくて、早い時に連絡あるんですか?」
「だって遅くなるっていちいち知らせてもらってたら、ほとんど毎日だもの」
私は笑って言った。
「じゃあ全然ゴハンとか作ってあげてないんですか?」
「失礼な、作ってるわよ、週末には」
「作れるんですか」
「まったく失礼しちゃうわね」
私たちは顔を見合わせて、こらえきれずに大笑いした。

実際タカハシは会社が忙しく、新婚旅行から帰ってからはずっとまとまった休みをとらず、週末はたいてい家でのんびり過ごした。
私も休みはゆったりしたい派なので、タカハシがテレビを見ている横で雑誌などをぱらぱらめくって時を送った。ふと気がつくと、テレビを見ていた姿勢のまま、タカハシはうたた寝をしている。私はそっとテレビのスイッチを切り、自分の好きなCDを小さくかけて、夕食の支度をはじめる。ビールの好きなタカハシのために、まずはかるいおつまみを2、3品作る。外食は味が濃いものが多いから、家ではなるべく薄味の和食を心がける。
炊飯器からご飯の炊きあがった合図のメロディーが流れてくると、タカハシは自然に目覚めて「ああ、寝ちゃいました」と誰に言うともなくつぶやくのだ。
「この間、カシワギ君に『店長ってゴハン作れるんですか』って言われちゃったわ」
平日は必要以上の会話がないので、週末はお互い話題がつきない。
「つきあいたての頃は、僕もスズミは家事なんか一切しないだろう思ってましたよ」
「そう?」
「うん、でもつきあってみたら世話女房タイプで、とっても意外でした」
「まあ、ヒトは見かけじゃわからないものなのよ」
「確かに」
「アナタだって、全然仕事できるように見えなかったわよ?裕子のダンナさんは『すごく仕事の出来る人だ』って言ってたけど、ウソだねーって思ったもの、はじめてあったとき」
「それはヒドイ」
「確かに」
私たちは穏やかに微笑みあう。
気持ちのいい春の夜。開け放したベランダのオリーブが、何かの花の香りをのせた風に揺れている。遠くのビルとビルとビルの隙間に出来たいくつもの細長い空は、群青とラベンダーのグラデーションを作っている。
「ワインでも飲みましょうか」
とタカハシが言う。
「白にする?赤がいい?」
「赤にしましょう。この前いただいたやつ」
「じゃあチーズを切ってくるわ」
そうして大きめのグラスにワインをそそぐ。
CDはとっくに終わっている。でも静寂は気にならない。タカハシは私の話を全て聞き終えると、ようやく自分の話をはじめる。新しいプロジェクトのこと、同僚とのやりとり、部下への対応。
私はうんうんと聞きながら、時折意見を言ったり驚いたり笑ったりする。
やがてタカハシが私をベッドへ誘う。
私は飲みかけのグラスを置いて、タカハシに手首をつかまれて歩いていく。

私はタカハシを愛していた。タカハシとの生活、タカハシの話し方、ちょっとズレているような感性。
パーフェクトな人なんかいないと思ってはいたものの、私にとってタカハシは100パーセントの男性だった。
でも。
今にして思う。
私が見ている部分で100パーセントでも、見ていない部分が1パーセントでもあれば、それは結局100パーセントなんかではありえないのだ。そうして見えない部分まで、自分が見ている色で補ってしまったとしたら。
私は考える。
それは全然別の風景だ。

「スズミさん」
かすれたような、でも可愛らしい声で、私はモニターからはっと顔を上げた。
店はランチタイムのヤマを超えて、夏の予感になんとなく浮かれた平日の午後を楽しむお客さんがぱらぱらと居るだけだ。
私は目の前に立っている女の子をまじまじと見つめた。ミディアムな長さのやわらかそうな髪に、色白の肌。少し下がり気味の眉毛に小さいけれど黒目がちな瞳。
何回か会ったことがあるのをやっと思い出した。タカハシの部署の女の子だった。
とっさに微笑んで「いらっしゃいませ、どうしたの?今日は会社は?」と言おうとして、彼女が背負っている空気に、はっと息を飲んだ。彼女は意志のこもった視線で私を捉えて離さなかった。

窓際の小さなテーブルに向かい合って座った。
彼女は―そう、確かエミコさんという名だった。
「すみません、突然」
彼女はようやく口を開いた。
スタッフが私と彼女の前に、それぞれの飲み物を運んできてから、しばらく後のことだ。
私は彼女が何を言うのか、全くわからないながらも、決して心楽しい話を運んで来たわけではないことを理解していた。
「すみません」
他の言葉を忘れてしまったように、彼女は再び同じ台詞を繰り返す。
私は黙って、テーブルの上に重ねられた、かすかにふるえている彼女の手を見つめていた。
「最初は―ほんのなりゆきだったんです」
意を決したようにエミコさんは話し始めた。
「大きな仕事がうまくいって、それで、そのプロジェクトに関わった社員みんなで飲みに行ったんです。みんな徹夜続きで疲れてたんですけど、それより嬉しさの方が大きくて。私も睡眠時間が全然足りない状態だったんで、飲んでいる途中ですっかり前後不覚になってしまって」
彼女は息継ぎをするように少し休んで、重ねた手をそっと組み直した。
「タカハシさんはそのプロジェクトのトップでしたから、そんな私を見て、責任を感じてしまったんだと思います。無理をさせてしまったんだって。それでタクシーで送ってくれたんです。私は―私は実は、入社してからずっと―半年くらいですけど、タカハシさんのことが好きだったんです。でも、タカハシさんは結婚されたばかりだって知ってましたし、そのあと奥さんに―スズミさんにも何回かお会いして、あんなステキな女性が奥さんなんだから、私なんか相手にされるわけがないって、そう思ってずっと自分の気持ちを抑えていたんです。でもその日は、タクシーに乗るときに支えてくれたタカハシさんの手にすがりついて、わあわあ泣きながら言っちゃたんです。『好きです。ずっと好きだったんです』って」
彼女はその時のことを思い出したように、頬を紅潮させた。
「タカハシさんは最初は酔っぱらいのタワゴトだと思って、はいはい、とか適当にあしらってたんですが、私があまりにも何度も繰り返すものだから、そのうちに『僕はどうしたらいいんだろう』って聞いてきたんです。だから私は―一人にしないでください、少しでいいから、私にタカハシさんの時間をくださいって―そんな風に頼んだんです」
彼女は目を閉じた。
「タカハシさんは、その夜、私の部屋に来て、私を抱いてくれました。でもその次の日、会社で会ったタカハシさんはごく普通の―まるでなにもなかったように、いつもと変わらない笑顔でおはようって、そう言ったんです。私は―なにしろずっと自分の気持ちを抑えていたあげくのできごとだったので、もう歯止めがきかなくなって、それから3日くらいして、意を決して誘ってみたんです。そうしたら、タカハシさんはすんなりとオーケーしてくれて―その夜も、夕食を一緒にとって、私の部屋に寄ってくれました」
彼女は小さくコクリと唾を飲み込んでから息を吸った。
「それが、3ヶ月くらい前のことで―それから週に1度か2週間に1度、タカハシさんは私との時間を持ってくれるようになったんです。だいたいは私から誘ったんですが、時にはタカハシさんから言ってきてくれることもあって、私は本当に幸せでした。多くを望んじゃいけない、ただでさえ人の道に外れたことをしているんだからって。でも―今から考えたら、そうやって自分に言い聞かせていたのは、ただのごまかしだって気づいたんです。ある日、私はタカハシさんに聞きました。私のことをどう思ってるんですかって。タカハシさんは少し考えてから『かわいいって思ってますよ』って言いました。『好きって思ってくれてますか?』とも聞きました。『好きですよ』って言ってくれました。私は―自分の求めている答えをタカハシさんの口から言わせたかったんだと思います。不倫する男性って、よく奥さんとはうまくいってないとか、出会いが少し遅かっただけとか、そんな台詞を口にするじゃないですか。ドラマとか小説とか、そういうのでは。だから私も『奥さんとどっちが好きですか』って聞きました。そうしたらタカハシさんはびっくりしたように私を見つめて、それからずっと黙ってしまったんです」
エミコさんの声が湿ってきた。泣きたいのはこっちなんですけどと思いながら、私も黙って彼女を見つめていた。
「本当なら、その沈黙から全てを悟って、潔く身を引くのが当然だと思います。私だって、例えば友達から相談されたとしたら、それは無理だからあきらめなよって言うと思うんです。でも―」
彼女は今やこらえきれなくなったように涙を浮かべて鼻声で続けた。
「どうしても、どうしてもあきらめきれなくて、それからもタカハシさんと会うのを止めることはできませんでした。タカハシさんは不思議な人で―私とそんな会話があった後でも、会いたいって言えば時間をとってくれて、全然態度が変わらないんです。いっそ『もう会えない』とか言ってくれたら、とも思って、自分から行動に出た癖に、タカハシさんを恨んだりもしました」
私は彼女の話を冷静に聞いている自分に驚いていた。しかも彼女の言葉から、映像までがくっきりと、まるで再現シーンのように頭に浮かんでいた。
「よくわからないんだけど」
私はまるで自分のものではないように聞こえる声で言った。
「そんなことを聞かされて、いったい私はどうすればいいのかしら」
彼女はしばらく下唇をかんでから、ため息をつくように言葉をつないだ。
「奥さんにこんなことを言いにくるなんて、筋違いもいいところだってわかってはいるんです。でも―もうどうしたらいいか、自分でもわからなくて、気がついたら会社へ向かう電車から飛び降りて、ここへ来てしまったんです」
エミコさんは伏せていた目をすうっと私へ移し、低く言った。
「私、妊娠したんです」
あまりに陳腐な成り行きに、私の脳内再現フィルムはぴたっとその動きを止めてしまった。
「タカハシさんにもそう言いました。いつものように、ご飯を食べた後、私の部屋に来たときに。タカハシさんは―しばらく黙って何かを考えていましたが、だいぶたってから、『今日は帰ります』と言って立ち上がって、玄関のドアを開けました。それから部屋の真ん中でぼーっと立っていた私を振り返って『大事にしてください』って言って出ていきました」
彼女はもう泣いてはいなかった。店に来て、最初に私に声をかけたときの目の光を取り戻していた。
「私、タカハシさんが好きなんです。本当に、本当に好きなんです。そのタカハシさんの子供なんです。堕したりしたくないんです」
「えーと」
この場にふさわしいとは決して言えない間の抜けた台詞が私の口をついて出た。
「あなたは私に相談に来たの?報告に来たの?それとも挑戦状を叩きつけてるつもりなの?」
「わかりません。ただ、私は―」
彼女はしばらく言葉を探していたが、あきらめたようにつぶやいた。
「私は、タカハシさんが好きなんです」

どうやって彼女と別れて家に戻ったか、後になって考えてもさっぱり思い出せなかった。私は長い間リビングの真ん中に座り込んでいたらしい。急に目の前が明るくなったのではっとして顔を上げると、タカハシが白い顔をして立っていた。
彼は目を細めて、私の表情をじっとうかがっていた。
「エミコさんが私の店にきました」
私は宙に書いてある文字を読むように言った。
タカハシは持っていた鞄を静かに床におろし、私の向かいのソファに座った。
「アナタの子供ができたそうです」
私は震えもしない自分の声を遠く聞いていた。
「僕は」タカハシは私から目をそらして言った。
「スズミを傷つけるつもりはなかったんです。子供のことは、話してなんとかしてもらいます。彼女とはもう個人的には会いません」
その瞬間、私の中で何かが壊れた音が聞こえた。
それは、何もかもを飲み込むほどの圧倒的な大きさの音だった。
私はその音に押されるようにすうっと立ち上がると、トイレに行くふりをしてバスルームに入った。
身体の中で、熱いものがバタバタと暴れている。
とにかくこの熱いものを出さないと。
それしか考えられなかった。
私は洗面台からタカハシのカミソリを取り出して、手首に押しつけて一気に引いた。
ああ、なにもかもが陳腐だ。そしてチープだ。
どこかで自分を嗤う声が響いた。

1週間を病院で過ごした。
病気知らずの私にとってははじめての入院生活だった。
点滴を受けたまま、一日一回、縫合した傷跡を消毒するだけの毎日は、退屈の一言に過ぎる。眠れないと訴えると睡眠薬が与えられた。
浅くて長いまどろみは、様々な夢を私に見せた。
バスルームのタイルを染めた鮮やかな赤。激しくドアを叩く音。誰かが私の名前を呼び続けている。
「タカハシさんが好きなんです」細く絡み付くような声。私を優しく愛撫するタカハシの指先。熱を帯びた吐息が私の耳にかかる。達する寸前のかすかなうめき声。
私はカミソリを持っている。自分の手首にあてようとする。でもそこは私の手首ではない。カミソリはエミコさんの下腹部をまっすぐに切り裂いていく。傷跡からはたいした出血はない。ぱんぱんに荷物のつまったバッグのジッパーを開くみたいに、裂け目がめくれて開いていく。
ぱっくりと開いた下腹部の中からエミコさんの黒い瞳がこちらを見つめている。「タカハシさんが好きなんです」響くリフレイン。絡み合うタカハシとエミコさんのイメージ。「スズミを傷つけるつもりはなかったんです」でもその手にはカミソリが握られている。バスルームに立つタカハシの靴下が下から深紅に染まっていく。彼は小さな肉塊を踏みつけている。私は声にならない声で叫ぶ。

タカハシは毎日病院に来た。私は彼を冷静に迎えた。
 タカハシは色々な話を持ってきた。エミコさんの妊娠は作り話だったこと。彼女に会社を辞めてくれるように頼んだこと。自分が他の会社に移ることも考えていること。
タカハシは私を愛していると言う。私を失いたくないと訴える。全て自分が浅はかだったと、心から後悔していると告げる。こんなに真剣な彼を見るのははじめてかもしれない。だからきっと本当なのだろう。
でも私はすでに失われてしまっている。タカハシが私の血で染まったとき、私たちの世界からは色彩が消えてしまったのだ。

エミコさんが私たちを壊したのではない。それはきっと、ただのきっかけに過ぎない。タカハシは私を、私はタカハシを、互いの色で染めていただけだったのだ。

退院してからの毎日は穏やかに過ぎていった。私は普通に店に通って仕事を続けた。表向きは盲腸の手術をしたことになっているので、店のスタッフとも冗談を言い合ったりして時折は大笑いしたりもした。そしてカシワギ君が入れてくれるお茶を素直に飲んだ。
私が家に戻ると間もなくタカハシが様々な食料を買い込んで帰ってくる。遅くなるときには電話が入るようになった。
しかし私は運ばれた食料を口にすることができなかった。鳥の雛のように喉にそれらを流し込まれても全て吐きもどしてしまった。当然ながら、私はみるみる痩せていった。
しばらくすると、タカハシが性交を求めてきた。私は抵抗もせず、習慣を消化するように彼を受け入れた。そして行為が終わるとトイレに行き、何も入っていない胃袋からひたすら胃液を吐き続けた。

「店長」
ぼんやりとモニターをみつめていた私にカシワギ君が話しかけてきた。
私ははっとして、とっさに笑顔を作ると
「なに、私、また眉間にシワ寄せてた?」とおどけて言った。
カシワギ君はにこりともしないで私を見下ろしている。
「店長、ちょっと時間をください」
「いいわよ、なに?」
「ここじゃなくて、表に出たいんですけど」
彼は私をさらうようにして店を出た。そして有無を言わさず私にヘルメットを器用にかぶせてしまった。
唖然としている私を自分のバイクの後ろに乗せると、カシワギ君は「しっかりつかまっててください」と言って、私の両手を自分の腰にまわさせてからバイクを発進させた。
街はもう夏だった。
空の色が、そして道路に落ちた様々なものの影が、くっきりと濃い。アスファルトの照り返しは私の視界を白く奪って、二度と目を開けたくないくらいの眩しさだ。
私はカシワギ君の見かけよりも逞しい腰にしがみついて、振り落とされないように必死だった。手の甲や首筋に、緑の匂いをたっぷりと含んだ風がびゅうびゅうとあたる。
ついたところは海辺だった。なんでまた…と思う私の心情を読んだように、カシワギ君が私からメットをはずすと、「僕の一番好きな場所なんです」と風に流されないように声を張って微笑んだ。
私たちはひまわりの花壇の間を縫うようにして潮の香りに近づいた。彼は芝生が質の良い絨毯みたいに茂っているところに私を座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
遠くでゆったりと、大きな観覧車が回っている。
海面は穏やかで、空を群れなす鳥たちの声を、ときおり強く寄せる風が運んでくる。
背中の方では気の早い蝉たちが競うように鳴いている。
「痩せましたね」なんでもないことみたいにカシワギ君は言った。
「ちょっとダイエットのしすぎ?」私もなんでもないことみたいに答えた。
カシワギ君は、穏やかな水面を眺めながら、しばらく黙っていた。まるで波間にきらきら光る陽射しの中に適切な言葉が浮かんでいて、それを取りに行かないと、と思っているようなまなざしだった。
やがてカシワギ君は、海の中から言葉を選ぶのをあきらめて、おもむろに、そっと私の右手をとった。
「こんなに小さな手のひらで」
彼は私の手の重さを確かめるように、もう一度しっかりと握り直して言った。
「あまり重い荷物を持ち続けないでください。僕は5年も店長の下で働いているんです。僕じゃ、店長の負担を軽くする役目はできないんですか」
私はびっくりしたまま答えに窮した。
「何を言ってるの。私はカシワギ君のことをとても頼りにしてるし、店のことだってほとんどあなたに任せっぱなしの部分だって多いし」
「そういうことじゃなくて」
カシワギ君はそうしていないと私が逃げてしまうみたいに私の手を強く引いた。
「これは恋愛じゃなくて同情なのかもしれない。でも、僕は少なくとも5年間、あなたのことを見てきました。僕にとってあなたは上司である以上に、かけがえのない、大切なひとなんです。そのあなたが、たぶん旦那さんのことで、苦しんで痩せていく。僕はそれをただ黙って見ているしかできないんですか」
私は混乱してカシワギ君の顔を見つめた。同情かもしれない、なんて平常時に言われたらなんたる侮辱!と怒り心頭するところだ。でも彼は真剣に、飾らない心情を伝えようとしてくれている。私は落ち着くにつれ、次第にそう納得した。
5歳も年下の、自分の部下と手をつないでふたりで海を眺めている。そんな現実離れした状況が、どこかの神経を麻痺させているのだろう。私は彼にとらえられた手をふりほどこうともしなかった。

その夜、カシワギ君は私を抱いた。同情なのかもと自分で言ったとおり、彼は私を治癒するように愛撫した。私もカシワギ君を愛しているとは決して思わなかった。それでも彼とのセックスは私に言いようのない至福を与えた。
カシワギ君は、何度も何度も、私に口づけをした。
私の髪に。
私の唇に。
私の乳房に。
そして私の傷跡に。
全てが終わった後、私は激しく泣いた。子供のように、カシワギ君の胸に顔を押しつけて。
カシワギ君は、そんな私をずっとずっと、優しく抱きしめ続けていてくれた。

私は店の近くに手頃なアパートを見つけ、契約を済ませた。
カシワギ君は、自分の部屋に来てもかまわないと言ってくれたが、それがベストでないことはお互いがわかっていた。
カシワギ君と私は、それから二度とベッドを共にすることはなかった。それが自然だったし、店では毎日当たり前に挨拶を交わし合って仕事に勤しんだ。
それでも私はあの日、彼から大切なものを伝えられたし、私は彼に今まで見せていた部分の裏側をさらけだしたように思う。
私たちはこの心地よい関係に自分たちを置くために、男と女をフルスピードで通過したのかも知れない。

タカハシは私の理想の伴侶の象徴だった。私が描く、こうであるべき夫の像を、ほとんど過不足なく持ち合わせて私の前に現れた。
たとえばそれは、卑近に下世話な条件だ。学歴だったり収入だったり、あるいは「素敵な旦那様ね」と人に言われる程度の容貌だ。
でもそれが全て満たされたところに現れる、ある種の当然な化学反応を、私は見落としていたのかも知れない。いや、わざと見て見ぬふりをしてきたのだろう。
いつまでも恋をし続けていたいわけではない。けれど、尊重するとか必要とされるポイントがずれているのは致命的だ。その誤差は、修正されることなく、どんどんとその乖離を深めていくだけなのだ。

季節はゆるやかに、しかしなんの留保もなく、夏を終わらせていく。
あと1週間もすれば、金木犀はもっと薫り高く街を覆っていくだろう。
そして空の色は薄くなって、高く高く登っていくのだろう。
私はバッグから、殺風景な茶封筒を取り出した。それからふと思い出して、そこにポケットから出した鍵を滑り込ませた。
ベンチから立ち上がると、私はタカハシの正面にまわった。
タカハシはそのままの姿勢で私を見上げた。
「離婚届。私の方は全て書いてありますから」
タカハシはしばらく私が差し出した封筒を静かに見つめていた。そしてゆっくりと右手を差し出すと、私の左手を封筒ごと握りしめた。
私はされるがままになっていた。やがて彼はあきらめたように力を抜き、封筒だけをつかみ取った。
封筒から鍵が落ちて、タカハシの足下で澄んだ音を立てた。

Fin

スガシカオさんの名曲「AFFAIR」に捧ぐ