オトナのヨルのモノガタリ
序章
─ 夢の国への入り口
「飲み直しって?」
美しくネイルがほどこされた指先でグラスのフチについたルージュを拭いながら、『姫』は小首をかしげた。
『姫』とは、ここにおける女性客の呼称だ。どんな女性でも、ここではただ『姫』と呼ばれる。年齢や立場という殻を脱ぎ捨て、『姫』として楽しむ場所が、ここ、すなわち『ホストクラブ』なのである。
「飲み直しっていうのはね」
僕は『姫』のグラスを受け取り、氷を落とし込み、ペーパーナプキンにそっと水滴を吸い込ませながらこたえる。
「その前に、お名前、聞いてもいいかな?」
ここからが僕の腕の見せどころだ。僕に興味を持ってもらえるかどうか、僕だけの『姫』になってもらえるかどうかが、席に座っていられるこのたった数分にかかっている。
「そうね、サクラと呼んで」
はにかむようにうっすら微笑みながら『姫』はこたえる。偽名であろうが、本名であろうがかまわない。
「サクラちゃんだね」
今だけは、誰のものでもない『姫』に名前がうまれた。そして『サクラちゃん』のこの数分は、僕だけの時間となる。
「今は『初回』っていう時間なんだ。これから色んなホストが、こうしてサクラちゃんの隣に座って挨拶をさせてもらう。ひとり…そうだな、7分か8分ってとこかな。ここには大勢のホストがいるから、全員はつけないけれどね」
そう、僕はラッキーなのだ。『初回』の『姫』と言葉を交わせるチャンスをもらったこの時点で、すべてのホストが一斉にスタートを切ることとなる。ノーハンデだ。
「もしその中に、サクラちゃんの気に入ったホストがいたら、そのホストともう一度乾杯するんだ。そこからのサクラちゃんの時間は、そのホストのもの。いや違うな、そのホストがサクラちゃんのものになる。今日だけのサクラちゃんの指名のホストを決める制度を『飲み直し』っていうんだよ」
僕は言葉をつないだ。
「もちろん…サクラちゃんには僕を選んで欲しいけどね」
僕はようやく『ホストらしい』セリフを口にする。
「君の名前、もう一度聞いてもいい?」
じっと僕の話に聞き入っていたサクラちゃんが、僕を見つめる。
「ルキ」
グラスに隠れていた、写真の入った名刺をたぐり寄せ、僕は彼女を見つめ返す。
「僕の名前はルキ。今日はそれだけ覚えてくれればいいよ」
僕の笑顔が、僕の声が、彼女の心に響くように、祈りを込めて僕はささやいた。
第二章
─ かぼちゃの馬車が来る前に
「きっと選んでくれると思っていたよ」
何人ものホストが次々と『初回』のサクラちゃんの席についたしばらく後、ホールのマイクアナウンスで僕は自分の名前を確認した。
「これで私はアナタのモノってわけ?」
いたずらっ子のように上目遣いで僕を見つめる彼女の頬が、明らかに重ねた杯のせいだけではない高揚を見せている。
「僕で飲み直しを入れてくれたんだね」
ありがとう、というセリフは瞳に語らせ、僕はさっきよりほんの少しだけ彼女の近くに身を寄せた。
「飲み直しにも、2種類あると言われたわ」
『内勤』と呼ばれる黒服スタッフから、彼女が詳しい説明を聞かされているのは百も承知で僕は言葉を選びはじめる。
「そう。今日12時までだけの、仮の契約を結ぶ飲み方と、これからの永い時間、僕だけの『姫』になってくれるっていう約束が交わされる方法と、2種類だね」
「12時まで?」
「12時まで。仮の契約は、今日の12時まで有効の魔法なんだ」
「シンデレラみたい」
彼女は自分の言葉に酔ったように、ふわりとした微笑みを浮かべた。
「それで───」
僕は彼女のグラスよりなるべく低い位置になるように自分のグラスを近づけながら訊いた。
「この乾杯をする僕のガラスの靴は、12時までの幻なのかな?」
「永久指名制なんですってね」
はぐらかすように、からかうように彼女はこたえる。
「そうだよ。他の街ではどうだか知らないけれど、この街では後者を選んだら、永久に指名は変えられない」
「そんな大事な決断を、たった数分で決めなければならないの?」
「それが嫌なら、仮契約でも構わないよ。少なくとも今この時のサクラちゃんは僕だけの『姫』だから」
「ガラスの靴は───」
彼女は自分のグラスを目の高さまで上げて乾杯をうながしながら言った
「ガラスの靴は、これからも消えないわ」
軽いかけ引きの緊張からときはなたれた僕らは、共犯の目くばせを交わしながら、どちらからともなくふきだした。
「乾杯。素敵な夜に」
「乾杯。嬉しい出会いに」
魔法はとけない。かぼちゃの馬車のお迎えは来ない。
ようこそ、君のすべてを受け入れる僕の元へ。
ようこそ、僕の『姫』だけが味わえる世界へ。
第三章
─ 夜の水先案内人
「連絡をありがとう」
赤いソファーにゆっくりと身をなじませてから、彼女はようやく口を開いた。
「また会えて嬉しいよ」
ありきたきだけれど、心からの気持ちを込めて、僕は言った。
外は雨。
彼女の少しゆるんだカールの髪の先端が、その潤んだ気配を僕に伝える。
「ルキ君───、ルキ、と呼んでかまわないかしら?」
「もちろん、サクラちゃんの呼びたいように」
「前回も言おうと思っていたのだけれど、私、『ちゃん』なんて呼ばれる年齢じゃないわ」
「気にさわったならごめんよ。でも、年齢でそう言っているなら、それは間違いさ。年齢も職業も関係ない。もちろんサクラちゃんは素敵なオトナの女性だけれども」
「職業も訊かないの?」
「訊かないよ」
「それはなぜ?」
ルールだから、それが決まりだから…、様々なベストアンサーを探そうとしたが、彼女の前では無用な気がした。
「ここではサクラちゃんは、僕だけの女の子だから」
少しちぐはぐだったかもしれない。
それでも僕はあえて、この言葉を口にする。
耳ざわりのいい、選び抜かれたセリフのストックは、今日は出番がなさそうだ。
「私、ホストクラブは前回が初めてだったの。だから今日はどうしたらいいのかわからないわ」
「でも、こうして来てくれた」
「そうね、入り口の扉が、むやみに重く感じたわ」
「でも、僕に逢うために開けてくれた」
「そう、ルキに逢いたくて」
彼女が『僕だけの女の子』になった証拠だ。
「まかせておいて。そのために、僕がいる。僕は夜の水先案内人さ」
「迷うことはないの?」
「プロだからね。免許も持っている」
「ホント?」
「もちろん」
僕の冗談にようやく気付いて、彼女は笑う。
「せいぜい転覆しないように気を付けないと」
そうこなくっちゃ。
夜の海路で正しい道を教えるのは僕でも、舵は彼女が握っている。
「まずは軽く乾杯しよう。何が飲みたい?」
「何があるの?」
「何でもあるよ。サクラちゃんが望むものなら、たいてい」
「まかせてもいい?」
「もちろんいいよ。大歓迎。シャルドネは好き?」
「白ワインの?」
「ワインもあるけれど、最初に『缶もの』はどうかな。そう、白ワイン品種のシャルドネ味の」
「じゃあ、それで」
彼女がほっとしたようにうなずくのを確認し、僕は待機していたヘルプにオーダーを通した。
「乾杯!」
元気のいいヘルプたちも混ざり、賑やかに夜がはじまった。
「不思議ね」
「何が?」
「私はルキに逢いに来たのに、こんなにたくさんの男の子たちが私の相手をしてくれるなんて」
「僕とふたりきりがいい?」
「できるの?」
「サクラちゃんが望むなら」
「もっと大勢の男の子と飲みたいと言ったら?」
「サクラちゃんが望むなら」
「なんでも私次第?」
「そう、それが『ホストクラブ』だからね。サクラちゃんの望みはほとんどかなえられるよ」
「ならば、もしも───」
少しだけ酔った彼女が何かを言いかけた。
僕はまなざしに力を込めて彼女の言葉を待った。
彼女の表情に戸惑いが浮かぶ。
しかし彼女はそれを、グラスにつがれた液体に溶かして飲み込んだ。
「乾杯、二度目の夜に」
再度整えられたグラスをかかげ、彼女は少女のように微笑んだ。
Prologue
─ In the case of『SAKURA』
「ホストクラブにご興味はありませんか?」
いつもの雑踏と瞬くネオンサインに溢れた街角。
ナンパや勧誘、キャッチと呼ばれる声は『ないもの』として過ごしてきたありふれた日常の一コマなのに、どうして今日だけ、足を止める気になったのだろう。
その男性がよくいる『そういったたぐい』の人物の風貌とは違って見えたせいかもしれない。
「興味───ないこともないのだけれど───」
「『初回』に行ってみませんか?」
「『初回』って?」
「言うなれば、お見合いです。ホストクラブで遊ぶための、楽しい儀式」
「儀式?」
「そう、ほんの数千円で、夢の国への扉が開くんです」
「でも───」
少し芽生えた見知らぬ世界への好奇心を確かに感じながらも軽く首をふる
「やっぱり─怖いわ」
そのままこの場を去ることもできたはずなのに、何かが自分をここに足止めをする。
「怖いことなどありません。そりゃあ一昔前は色々とダークな世界というイメージがあったと思います。でも今は違います。どのお店も安全で愉快な場所です」
「どのお店も?」
「そう、この街だけで、二百件以上もの店舗があります。その中から、安心して過ごしていただける、貴女のお好みにぴったり合うお店をご紹介するのが、僕のような『外販』の仕事ですから」
『外販』と名乗ったその男性は、おどけて胸を叩くしぐさを見せた。
「どんなお店でもご紹介できます。しっとり飲みたい?」
「ほどほどに」
「それとも、パーっと騒ぎたい?」
「ほどほどに」
「どんな男性が好み?」
問われて少し考えた。
「いわゆるホストっぽくない人がいいわ。ちゃんとしたお話しもできて───」
「了解、任せて」
私の反応を真剣にうかがっていた彼の脳内ルーレットが、きっとどこかの指標に止まったのであろう。彼は私を促すと、派手やかに夜の街を彩る光の奥へといざなった。
「僕が連れて来れるのは、ここまでです。エレベーターを上がってドアを開けるのは貴女おひとりで」
「やっぱり少し怖いわ」
「大丈夫。待っているのはパラダイスです」
彼の言葉に背中を押され、私はようやくエレベーターのボタンを押した。
指示されたフロアに到着すると、目の前に、磨き抜かれた曇りなきホワイトの、意外に可愛らしい、しかし重厚なドアが立ちふさがる。
無意識に深呼吸をしてから、金色の取っ手を持ち、私はおもむろにパラダイスへの扉を開いた。
Chapter II
─ In the case of『SAKURA』
「お好みのキャストを3名までお選びいただけます」
一筋の乱れもなくきっちりと整えられた髪型に、漆黒のスーツを纏った男性が目の前に跪き、分厚い革張りの背表紙で装丁されたアルバムを開く。
「お選びいただいたキャストを優先的につけさせていただきます」
ほどよく低く、落ち着いた声が、私の緊張を少しだけやわらげてくれる。
しかし『男を選ぶ』という、初めての行為を促され、私の中にかすかな抵抗がうまれる。
私たち『女』は、常に『選ばれて』きた側だ。
容姿で、年齢で、性質で───。様々な場面で、要素で、選別され続けてきた。
それがここでは『客である』というだけで、無条件に男性を選べる立場に置かれているのだ。
『選ぶ』ということは『選ばなかった』男性を全否定することになりはしないのか───。
私の交錯する想いをよそに、黒服の男性は、静かに私の返答を待ち続けている。
はっと我に返り、ともすると震えそうになる指先を抑え、アルバムへと手を伸ばした。
女の子と見紛うばかりの可愛らしい子。
端正な横顔がセクシーな男性。
真っすぐな視線で目力をアピールしてくる男の子達───。
社会的地位や立場を取り払い、純粋に容姿だけを見比べるという類稀な体験に、だんだんと高揚してくる感情を否定はできない。
そして、自分の中にも『好みの容姿』という概念が確かに存在していることに改めて気づかされた。
「じゃあ───、この方と、この方と、この方を」
「かしこまりました」
それでも、全くタイプの違う、それぞれの魅力を持つ3人をようやく選び抜くと、それだけで一仕事を終えたかのように虚脱した感覚に陥った私をソファーに残し、黒服の男性は、まるで夜の海の底へと潜っていく深海魚のように、静かに立ち去っていった。
「ようこそ」
放心していた私に、心地よく軽やかな、柔らかい声が降り注いだ。
見上げると、確かに自分が指し示した写真から、ひとりの男の子がその姿に血を通わせて、すんなりと抜け出して立っていた。
「隣に失礼してもいいかな?」
彼はぎこちなく頷いた私をあやすような笑みを浮かべて、無駄のない四肢をしなやかに操ると、私に抵抗を感じさせない絶妙な距離に音もなく腰をかけた。
抜けるような透明の白い肌。柔らかく緩んだ目元に深い影を落とす長い睫毛。皺ひとつない清潔なシャツの首元には、おそらく本革で作られた細身のネクタイが飾られている。
緊張している私を見てとったのであろう。彼はきっと決められたマニュアルにある順序をいくつか飛ばすと、私に渡すつもりであった自分の名刺をテーブルの端にそっと置き、美しい所作でグラスを持った。
「こういう場所は初めてなの」
一杯のアルコールがようやく私の声帯に潤滑油として作用した。
「そうなんだね」
照明を反射した輝く瞳で、面白そうに彼は私を見つめる。
彼の手首から、決して嫌味ではない質の良いパフュームの香りがかすかに漂ってくる。
「アナタは飲まないの?」
「いただいてもいいのかな?」
「もちろんよ」
「でも───」
彼は悪戯を思いついた幼子のように、血色の良い艶めいた唇の端を上げると
「僕がいただくのは『飲み直し』の時間にするよ」
綺麗に整えられた爪で、私のグラスを軽くはじいて、そう言った。
Chapter Ⅲ
─ In the case of『SAKURA』
「もうお休みの時間かな?
今日は初回&飲み直しをありがとう。
サクラちゃんが僕だけのお姫様になってくれて
とても嬉しいよ。
このLINEはまさに貴女と僕とのホットライン。
サクラちゃんのどんなことでも知りたいよ」
まどろみかけた私の枕元に置いたスマホがメッセージの着信を振動で知らせる。
そのまま夢の中へ行ってしまおうか、それとも今日迷い込んだ別世界へのエビデンスを手繰ろうか───。
一瞬間の迷いの後、暗闇に蛍のように柔らかく点滅を続ける光へと手を伸ばした。
「今夜は楽しかったわ。
もうベッドの中よ。
私のどんなことが知りたいの?」
うつつに居ながらも、どこか幻のような不思議な時間。
普段なら口にも文章にもしない言葉が画面を横切る。
「何でもだよ。
サクラちゃんがどんな女性なのか
とても知りたい。
どんなことが好きなのか
次に逢ったとき、
どんな風に僕に微笑んでくれるのか
少しずつでいいから知っていけたら嬉しいな」
どこか冷たさすら感じさせるほど、すんなりとしたしなやかな指先が、この仄かな熱を帯びた文章を紡いでいる様子を想像してみた。
同じ時間、違う場所で、夜をよぎって言葉の電波が交錯するその様は、官能的な趣きすら感じさせる。
「少しずつ伝えたら
何年かかるかしら。
どんなことが好きなのかは
今すぐ伝えられるけれど
次に逢ったときに
君にどんな顔をしていいかなんて
自分でもよくわからないのに」
「『君』じゃなくて
『ルキ』って呼んで?
その方がきっと
もっと仲良くなれるよ」
「わかったわ、ルキ。
次に逢えるときまでに
笑顔の訓練をしておくわ」
「笑顔を引き出すのは
僕の役目。
それは奪わないで欲しいな。
サクラちゃんは
ただ僕に逢いたいって
思っていてくれたらいいよ」
「了解。
必ず逢いに行くわ」
「嬉しいな。
僕は次にいつサクラちゃんに逢えるんだろう」
「そうね───
じゃあ、雨が降ったら」
「雨が降ったら?」
「そう、雨が降ったら
ルキに逢いに行くわ」
うっすらと開いたカーテンの隙間から、乾いた夜空に浮かぶ月の光がシーツに落ちていた。
変わらない日常、過ぎていく時間に、不確かな約束が加わった。
外出のために天気予報を気にする以上の甘やかな期待を持って、降水確率の数字を眺める。
反故にすることもできる、なんの契約もない縛りが、柔らかい被膜のように視界を包むフィルターとして作用しはじめた。
そしてある晩、怪しくなった雲間から、空間に細い線を引くような細かい水滴が届いた。
「ルキ」
雨粒に呼びかけるようにつぶやくと、髪をカールする間ももどかしく、濡れたアスファルトにヒールのスタンプを押した。